自動車もコモディティ化するのか

地球上の全産業が、いまやAppleとGoogleに飲み込まれそうになっている。

小売業、サービス業という業界は、早くから広告手段としてのGoogleに従わざるを得ないコモディティ化の波に飲み込まれた。小売店は検索されてナンボ、ホームページから注文されてナンボ。成長したければGoogleのアクセス解析を一生懸命見なければいけない。

しかしいまや彼らは小売り、サービスならまだしも、ハードウェア、製造業をも飲み込もうとしている。

PC業界を見ればその流れの根幹は明らかだ。垂直統合していたハードを、マイコン、メモリ、周辺機器、ソフト、と全てをWintelが規格化していったことが始まりだ。

業界標準で規格化すればその通りに作るだけである。ハードメーカーにしてみればそれは差別化要素が無くなってしまうから、できるだけ避けたい。しかしある水平分業でシェアを取った会社がそれを先導してしまうと、その流れはユーザーメリットになるから止められない。PC業界ではWintelがそうだった。

果たして日本のお家芸、自動車業界はどうなるのだろうか。自動車業界にも少しずつ変化は訪れている。

(1)デンソーなど、モジュールに特化して水平分業しているメーカーが存在する。同じメーカーから同じモジュールを買っていけば同じような自動車ができてくる。

(2)動力源が内燃機関エンジンから、電気系を合わせたハイブリッド、さらには電気自動車へと変遷し、ソフトウェア、マイコンなどに依存するウェイトが増えている。

(3)ITS(高速道路交通システム)や、ナビゲーション、渋滞情報、近距離無線、事故防止センサーなど、自動車の高度化を支える技術が電気、ソフト、ネットワークへと拡張している。これらが既存の自動車会社の電気・ソフトエンジニアだけで包括できるか未知数である。

(4)電気自動車が増えてきた場合、電力供給面でスマートグリッドなど、米国主体のモジュール技術と親和性を持たなければいけない。

(5)高級車、スポーツカーなどの相対的人気が落ちてきている。町乗り、移動のための道具として自家用車が求められることが多くなり、こだわり、先進性を求めない人たちが増えている。彼らにとっては、デザイン、機械性能自体が差別化要素にならない。最低満足水準の自動車があれば、あとは価格の最も安いものを選ぶユーザー層が増えている。

このように、少し挙げただけでも、多くの分野で垂直統合から水平分業へと移行する気配が感じられる。

価格にこだわらないユーザーは、ソフト面での差別化を求めるようになる。とくに利便性、デザインといった項目が重要になる。デザインは自動車の場合垂直統合の差別化ポイントになって、垂直統合を肯定する要素になる。しかし一方で利便性は純粋なソフトウェアに依存する箇所が多くなり、ここでGoogle、Appleの出番になる可能性もある。

Googleは自動車の走行を完全自動化するソフトを開発するだろう。その規格を作成し、その規格にあった自動車をGoogle認定自動車とするはずだ。中国や韓国の自動車メーカーにその技術を採用するように働きかける。ソフト面で日本企業より低い技術の各社は、日本の自動車を駆逐するための手段としてGoogleと組むだろう。自分で運転しなくてもいいGoogleカーと、自分で運転しなければいけない日本車。コモディティ化した「単なる移動手段としての自動車」を求めるユーザーはどちらに靡くだろうか。ましてや規格化され単一モデルが量産されるGoogleカーは安いときたもんだ。

日本企業の垂直統合の頑張りっぷりが求められる。

日本企業の人事制度の方向性

今の日本企業は2000年頃からの欧米型の人事評価制度を導入して、どうもしっくり来ていないように思える。本質的な問題はなんなのだろうか?

一番感じるのは、XY理論と呼ばれる仕事のインセンティブの考え方において、日本は本来の良い姿を捨てて、悪い方向に行ってしまったのではないかと言うことだ。

XY理論とは1950年代に米国の心理学者マクレガーが考案した理論である。大きくは、次の2つのモチベーションを定義している。

X理論:

人間はそもそも仕事が嫌いで、報酬や懲罰などを与えて仕事の成果をコントロールすべきだ。

Y理論:

人間は社会実現や自己実現の欲求があり、最終的には社会的責任を果たすことにやりがいを感じるはずだから、自発性を重視して仕事の目標などを与えるべきである。

このような2つの考え方である。

日本企業の旧来の人事評価スタイルは間違いなくY理論であった。そして2000年以降の人事評価スタイルは間違いなくX理論になった。

社員の潜在能力を最大限引き出せるのは、どう考えてもY理論である。

欧米ではキリスト教の思想に労働は罰という考え方がある。アダムとイブが禁断の実を食べてしまったときに神から与えられたのが労働である。

日本では労働は古来、神へ穀物を奉納するために行う神事であったから、労働は元々罰ではない。最低限のやるべきラインを超えれば、あとは本人の自主性に伴ってやれるだけの成果を上げればよい。そんな史実が日本企業のベースになっていた。

次回はこれと企業経営の関係をもう少し深掘りしたい。

マネージャーが考えるべき事

自分も部下が数人いて、マネージメントを考えると本当に考えることは多いなと思ってしまう。

先日はプロジェクトマネージメントの研修を受けた。PMBOKを始めとして様々なマージメントの理論を学んだ。しかしそこにあったのは、ツールや理論だけではなしえない、マネージメントの奥深さだった。

最近の企業活動は複雑化、大規模化、統合、競合の激化、競争軸の変化、素早い社会環境の変化、移り気な消費者、グローバル化、などなど企業として常に変身し続ける必要がある状態が多い。その結果、仕事は「常態」ではなく、「非常事態」が常に続く。

非常事態に対応する変身の方法はおおむねプロジェクトとして進められる。プロジェクトの定義は「有期性(期限がある)」「終了条件がある」「成果物がある」「新規性がある」などの要素で構成される。

結局それを司るマネージャーは

  • 求められる結果を吟味する
  • 行動の計画を綿密に立てる
  • 活動と担当者の役割を明確にする
  • 漏れなく、無駄なく計画する
  • リスクを考えて対処を決めておく
  • ステークホルダーとの調整を行う
  • チームのコミュニケーションを円滑化する

など様々な深い要素が必要だ。

これらを計画し、行動し、実現する力がもとめられている。

チームでの仕事のうえで特に大事だと思うのがPM理論を意識したマネージメントだ。

Pはパフォーマンス(成果)

Mはメンテナンス(組織維持機能)である。

Pだけが大きければ、成果は出るが人間関係はギスギスする。

Mだけが大きければ、仲良しクラブだが成果は出ない。

どちらも大きくなる組織が、持続性があり成果を出し続けられる組織だ。

Pの大きさはプロジェクトマネージャーとしての計画・実行の技量。

Mの大きさは人間としての信頼残高だ。

本当にやることは多い。

日本人はオーストラリアに別荘を買え

円高が日本に何も恩恵をもたらしていないように見えるが、これは考え方次第だと思う。海外旅行に行く若い女性ばかりが有益に過ごしているようにみえるが、実際は海外投資を行ううえでも最善の環境だ。

元来、投資環境はホームバイアスというものがあり、日本人なら日本の資産や株式に投資したくなるモノだ。自国のものが目に見えるため信頼できる。情報も手に入りやすい。そんなことがホームバイアスを生み出している。

しかしこと今の円高を見て、本当にホームバイアスで日本の資産ばかりに投資するのが良いだろうか?将来的にいって、今の日本の経済状況、財政状況が反映されてどうやっても円安になる時期は訪れると思う。その際に、「あの円高の頃に海外資産を買っておけば」と悔やんでももう遅い。

この数年で自国通貨の上昇を最も謳歌したのはオーストラリア人である。オーストラリア人はなぜか北海道のニセコに別荘をたくさん購入した。ニセコのパウダースノーはオーストラリア人にとって憧れになり、大規模開発さえ豪州のファンドによって開始された。

オーストラリアの人々は自国通貨の上昇の恩恵をもろに受けたのである。

では日本人はどうか?不動産バブル崩壊以来、別荘を買うという習慣が元々無い日本には海外に別荘を買おうなんて考える人は少ない。しかし投資目的で不動産を買うのも一つの手である。豪ドルはリーマンショック前に1AUD=105円まで上昇した。その後55円まで下落したが、105円の時にニセコに投資した人々は豪ドル安の中でも大儲けしただろう。

今度は日本人の番である。

日本企業の負けパターン

先日のNECのエントリで、なんとなくいつもの日本企業の負けパターン(特に製造業)がわかってきたので書いてみようと思う。

まず、日本企業は新規ビジネスの立ち上げには有利な環境があると思う。

  • 万遍なく基礎研究を行っている。
  • 技術系も総合職として入社しており、専門性が低い、
    そのためローテーションさせやすい。
  • 社属意識が高いうえに 事業部によって給料の差がないから、同じ会社で働けるのならどの部署でも良いと思っている人は多い。
  • 協調作業、協業が得意で、すり合わせが必要になる商品開発に強い。
  • 株主が利益水準に対してシビアで無いので市場の立ち上がり時期の低利益を許してくれる。

これらの要因から、日本企業の新規ビジネス(特に垂直統合モデル)の立ち上げの優位性が保てる。

しかし、製造業については市場が立ち上がるとこの垂直統合モデルがうまく機能しないことがしばしばだ。

市場の規模が大きくなると、開発される商品のラインナップが増えてくる。それにより開発費が膨らむようになる。全部を内製でやるには投資が大きくなりすぎる。そこで部分的に付加価値が低いものは外放するようになる。

そのうちに中に使うモジュールの専業メーカーが現れる。モジュールのなかでも、ソフト、半導体の部分はそれぞれ米国、台湾が投資開発環境面で強いため、日本企業の内製よりも高い付加価値で、安く提供することができる。それらのモジュールは外販されるので、市場の形は日本のような垂直統合から水平分業へと移行する。

最終的には組み立ての安い台湾、中国がユニットアッセンブリーを請け負い、企画さえ出せば誰でも作れるモデルができる。市場はセットのブランドで階層化される。このころには十分な市場規模があるため、中間から下のラインナップは台湾系メーカーがひしめく。

上位の付加価値層は日本メーカが抑えるのが常だが、台湾メーカーは徐々に技術力を高めて上位のラインナップをだし始める。下のラインナップをやっているので大量生産によるコスト競争力があり、上位の付加価値を少しずつ侵食する。

最終局面では日本メーカは撤退や合弁会社を作るなどして事業を終える。

そんな構図だ。

最近の例で見てみるとどうだろうか。

<PC業界>

NECは高度な垂直統合モデルを構築したが、基本ソフトはマイクロソフト、マイコンはインテル、Wintel陣営が規格を作ったCD-ROMドライブ、ハードディスクIF、メモリ規格などなど、それらを製造・組立する台湾メーカー・韓国メーカーが台頭した。PCはパーツを買ってくれば小学生でも組み立てられるモノになった。

部品メーカーだったASUS、Acerなどは完成品のPC製造もやるようになり、5万円ノートPCなど圧倒的低価格の製品で市場を壊し始めた。最近では高付加価値製品をラインナップしてきて市場を侵食している。NECはLenovoとPC部門を合弁にした。

<ケータイ業界>

NTTDocomoは国内における携帯事業者として通信、電話、基地局設置、端末、サービスの統合を果たした。端末と事業者はSIMロックという状態で結ばれており、端末を高い機能にしてサービスをより洗練化させるという改善サイクルを繰り返した。

国内の独自仕様だった電波周波数、メーカー独自仕様の端末、独自のクローズサービスで高収益を謳歌した。しかし、中に使うベースバンドプロセッサはQualcom、TIなど米国メーカーのものが中心となった。小型化技術の点で日本メーカーにも優位性があったが、世界の人々の携帯電話の使い方はそれに及ばず、単機能、低機能のモデルが世界市場の殆どを占めた。

Nokia、Ericson、Motorolaなどの北欧・米州メーカーが端末シェアでえはたかかったが、結果的に3社とも路頭に迷った。Nokiaは瀕死、Ericsonはソニーと合弁、MotorolaはGoogleに買収である。

OS部分でも各端末メーカー独自のものがあったが、GoogleによるAndroidで風向きが変わった。スマートフォンのニーズが高まり、欧米系メーカーに代わって主役になったのがHTC、Samusung、ファーウェイなどの東南アジアメーカーだ。

ベースバンド、OS、周辺部品もモジュール化がすすみ、中国のローカルメーカーでもちょっとした技術があればケータイは作れる代物になった。サービスはAndroidマーケットに分業された。

日本の端末メーカーは12社がひしめき合っていたが、合弁して大手4社に集約された。まだ集約は続くだろう。インフラを担当する事業3社(Docomo、Au、Softbank)は端末に差が無くなったのでネットワーク品質のみを競い合う関係になった。

企業成長のジレンマ

イノベーションのジレンマについては多くの記事があるので割愛するが、改めて自分なりに子のテーマをしっかりと体系立てて整理していこうと思う。

企業成長におけるジレンマとは、多くの日本の上場企業が直面している問題だ。

一般的な「イノベーションのジレンマ」と殆ど同じだが、「イノベーションのジレンマ」が概して技術・普及という側面にだけフォーカスしているのに対し、自分が考える「企業成長のジレンマ」は日本企業の構造、上場企業と株主の関係まで包括した考え方だ。そのなかから日本企業に処方箋があるのかを考えていきたい。

まず、例えばパソコン業界(以下PC業界)を考えて行きたい。

80年台に日本市場を席巻したNECはPC98シリーズで独自の垂直統合モデルを実現した。ハード、ソフト、販売網を整備し、利益率を最大化する戦略だ。シェアも取ったので市場の王者になった。96年ごろにコンパックショックがあり、それまで市場売価が30万円近かったPCを半額以下の12万円で導入してきた。ここからが価格競争の始まりになった。

以後のWintelの勝利、デルモデル、についてはあえて記載しないが、NECは大きくシェアを失った。ここでNEC、富士通、東芝を初めとした企業が取った戦略は簡単に言えば「自己正当化」である。業界標準であるWintelには従ったものの、デルモデルを真似て半分通販にも足をつっこんだ121Ware(NECの通販サイト)、そして低価格ラインナップの充実という作戦だった。しかし価格では国内専業メーカーであるNECにとって勝ち目は無いので、高付加価値化を選ぶしかなかった。つまり30万円でも満足してもらえる性能向上と品質、サービスを提供し続けるということだった。これが自己肯定、自己正当化である。これが社内を説得するには一番手っ取り早く、仮説も立てやすい。既存の開発要員、工場を切るわけに行かないから、それを維持できる付加価値のモノを提供するしかない。

今やPCはデザインにこだわらなければ小学生でも組み立てられる代物になった。これはWintelの戦略で、ハードウェアを限りなく規格化して、台湾の安い人件費で作れるように設計したからだ。それを共通インターフェースで組み立てれば誰でも作ることができる。

こうなると国内のPCメーカーの付加価値は、デザイン、小型化、高機能化というように市場の上澄みをすくう「スキミング戦略」しかなくなった。

これをどう評価するかは難しい問題である。NECがもしコンパックと同じ勝負をするなら、大胆な人員削減が必要だったろう。しかし、低価格帯の商品のみを草刈り場にさせたのだったら、もし残った上澄みで同じ利益を維持できたなら成功だったかもしれない。

単純にグローバルに生き残れない日本企業を「ガラパゴス」と呼んで蔑んでも定量的な価値判断とはいいがたい。

人件費の高い日本人を雇い、日本での生産、日本での付加価値積み上げを行うならスキミング戦略は妥当である。

しかし自分は、中途半端に低価格帯のモデルもやり続けた戦略に実際は大きな問題があると考えている。これは実は「売上規模至上主義」という間違った経営判断によるものだ。株主利益の追求がかつてより大きくなったのは知られているが、厳密にはそれは徹底されているとは言い難い。いまでも経営者の半分以上は「利益の前に売上」という思想が強いと感る。売上が前年比○○%減という表現を忌み嫌う習慣は今でも残っている。ところが株主が求める数字は「利益」である。増収減益よりも減収増益のほうがイイに決まっている。しかし、株主からのインセンティブ設計が日本の場合はうまくいっていない気がする。

もう一つ、これを阻害しているのはやはり人員整理のしにくさだと思う。雇用は守って当たり前。日本でのこの風習が続く限り、「売上優先」になってしまう。現在の雇用を守るためには利益とは相反するからである。

雇用確保、株主利益インセンティブ、そして、スキミングへの経営判断

この3つの関係が今の日本企業を語る上での一つの観点だと思う。

(つづく)

なぜ欧米企業はレイオフ、人員削減ができるのか

以前のエントリで「王の国、天皇の国」と書いたが、そこからの発展の話を続けたいと思う。

「王の国」である欧米では、王を倒して自分が新しい王になるのが歴史の転換点である。

だから自由に王を倒すための仕組みが必要であり、それが民主主義のベースにもなってきた。

王の国では一度王になった者は絶対的な権力を有する。それは王になった成果である。その時の庶民からは税金を集め、自分が王であることの誇示をする。それが大きなお城であり、城壁であり、金銀財宝になる。

ちょっと話はそれるが、エルメス、ヴィトンなどの高級ブランド品が生じたのが欧州であることは、この王の国という制度と関係している。王は自分の権力の誇示のために庶民では手の届かない者を手に入れる必要がある。それが一つのブランド品であり、今の階層社会の原点につながっている。

天皇の国である日本では天皇は初めから絶対的な存在であり、人々の心の崇拝をうけているため、自分の立場を誇示する必要は一切無い。日本の歴史において王が生まれたのは鎌倉~江戸時代であり、豊臣秀吉の絢爛豪華な文化遺産などは欧州の王の国と同じように平民から成り上がった者が自分の力を誇示するために生まれたものだ。天皇家ではもともとそういう悪趣味はないし、必要ない。元来天皇家は国民と願いはいったいなので誰かの資産を奪って自分だけが良い思いをするなど考えられないのである。

欧州のブランドはそのような経緯で発祥した。日本発の有名ブランドがないという話も聞くが、本来それは風土文化の上であまり品のいいモノではないからだ。

近いものとして、飛行機のファーストクラスという席がある。ファーストクラスの料金はエコノミーの10倍~30倍もするものだ。階級社会でなければそのような値段設定をする必要は全く無い。さして庶民に階級の差がない日本人にとってあの値段設定が違和感あるのは当然である。

つまり、いま我々の身の回りにある高級品というのは、階級社会の上位層の無駄に金がある状況につけ込んだ産物であり、それを躍起になって手に入れようとしている日本人は本来の日本文化と歴史、この国のあり方を理解していないことが明確である。

話を元に戻す。

以上のように階層社会のある欧州では、その後の企業経営という土俵においても王(=経営者)が絶対的な存在であるのは間違いのない事実だ。その責任を果たしたときは、庶民の何十倍、何百倍の報酬を得るのが彼らの文化である。これがレイオフ、解雇にしても自由にしてしまう文化であり、風土である。王はほかの国の王を倒すための戦いをするのだから戦略が重要である。必要とあらば特攻部隊を作って、トータルで最低限の被害に食い止めるというのは王の国では当たり前のことである。いわゆるリストラがやりやすいのもそういう背景がある。

それに対して日本企業はそもそも民衆の合意でボスを決めている。欧米企業の経営者はCEO(最高経営責任者)であるが、日本の経営者は社長である。つまり会社の長である。同じように部長、課長、係長というのは全て「長」であり、管理者(マネージャー)ではない。マネージャー、という考え方は平民を管理し、統制するための考え方だ。日本の文化にこれがそぐわないのは当たり前だ。

海外では部長はGeneralManagerであり、どこまで行っても、「部下を管理する」というところから抜け出せない。それに対して「長」は村長などと同じで集落の首長、つまり尊敬を集める人でなければならない。

マネージャーという表現は常に労働はシステムであり、言われたことを行わせるためのものであることからは抜け出せないのである。

「労働は罰」の国、「労働は神事」の国

日本という国の特異性を表すもう一つがこの表題だ。

キリスト教において人間はアダムとイブ以来、罰を与えられて生きている。「禁断の果実」を食べた罰として、天から労働を課せられ、それをこなしている。欧米人にとって労働とは「なるべくやりたくないもの」であり、そこに喜びはない。苦痛の対価はお金であり、お金無くして苦痛は無い。

一方で日本というこの国にとっては労働は神事である。旧来農耕民族を長く続けたこの国では、五穀豊穣は神に捧げるものであり、穀物を大地から得ることはそれ自体が労働ではなく神事である。大地は神から与えられ、そこで農業を行い、その喜びを神様と分かち合う。だから労働に対価はもとから存在している。労働に携わること自体が神と一体になることであり、それ自体が心の最大の満足である。だから労働の価値基準が金銭で動くことはない。一所懸命に与えられた大地を耕すのが大切で、欲を出してほかの土地に手を出すことはあり得ない。

また、動物も植物も、全ての命が尊い、さらにはあらゆる物質でさえも「八百万の神」とする神道においては農作物も獲物である動物も食べることによって命が一体化するということになっている。だから命を「いただきます」ということで食事も神事になっている。天皇、神、動植物、物質、そして自分たちも一体で自然と神と生き物が調和していくのが本来の日本の心の姿である。

よって欧米における労働観は、
「罰をこなす」「対価(お金)を得る 」「なるべく少ない罰をうけたい」というふうになっていく。つまり、命令はOrderである。 経営者の立場にすれば、「金をやるから、罰を受けろ」これはOrder(命令)である。

一方で日本における労働観は、
天皇・神・自然から与えられた大地を一所懸命に耕す。
耕すこと、成果を得ることは天皇・神・自然とともに分かち合う喜び、となる。
そこに本当の意味での企業経営者はいない。労働を管理するのはその人の価値観である。 神・天皇・自然を尊敬し一体化したいと願う信仰心の強い人ほど、対価に関わらず一所懸命に働く。だから労働はシステムではない。自分の心の中で完結させるもの、自己完結型の労働なのである。

「王」の国、「天皇」の国


日本企業がなんとなく低迷している理由を本質的に探し、
これからの企業経営のあり方、マネージメントのあり方を探っていきたい。

しばし歴史の勉強と、さまざまな物思いにふけってその因果関係を探っていた。

なんとなくその答えらしきモノがうかんできたので少し書いていこうと思う。

~~~~~~~~~

日本が世界の諸外国と比べたときに、根本的に違うのは
「王の国」か「天皇の国」かということだ。

日本がガラパゴスと呼ばれたり、あるいはその文化性が特殊なのはうすうす気づいているが、何となくそれを批判するような風潮が多い。しかし本質的な中身をよく見ていくとミスリードがいっぱいある。それを一つずつ解き明かしていきたい。

「王の国」「天皇の国」というのはなんなのか。

「王の国」 というのは王者決定戦が行われる国。そもそも人々が争って戦って、一人の王者が君臨し、国を統制・制圧・支配するというのが王の国のスタンスだ。

それに対して「天皇の国」である日本は、天皇陛下を頂点とした不変国家で、誰一人として天皇を倒そうとは考えない国だ。つまり「王」は決まっていて、王が統制することが不変の国なのだ。

天皇家は神武天皇が即位した約2600年前を起源としてその本質的な王朝制度は変化していない。これは世界に190近くある国と地域の中で、唯一の長期安定王朝である。

旧石器時代、縄文、弥生、邪馬台国、奈良、平安、鎌倉、室町、戦国時代、江戸、明治、大正、昭和と続いた歴史の中で、天皇の存在、皇室の継承だけは一切途切れていなかった。

しかもこれを実現したのは「天皇による民族支配」では決して無く、「国民の尊敬」である。

聖徳太子も、卑弥呼も、江戸時代に絶大な権力を持った徳川家でさえも、「天皇を倒して自分が天皇になろう」なんて考えた人物は、歴史上誰一人として居なかった。

天皇陛下が平安時代よりおられた京都御所には実は「お堀」が無い。お堀が無いということは侵略者・侵入者がいないということである。もちろん警備はいただろうが、本格的に武力突入を考えたら、お堀が無いお城なんて外国では考えられない。

これが日本の経営にどう結びつくのか、考えて行くことにする。

(つづく)

ロジスティクスの軽視はいつでも命取りになる

震災への対応について

今回の災害は地球上の人類の歴史でも相当なモノだったが、その被害が最低限で済んだのは日本の準備の賜物だと思う。

ただし、毎回そうだが、避難民への支援でロジスティクスがボトルネックになることは毎度のことで、日本の政府や行政がロジスティクスを軽視していたことは今回も同じことだった。

日本が太平洋戦争で敗戦したのは前線まで石油、銃弾、食料などの兵站が補給しきれなかったことだ。

巨大な大和や、武蔵を作ることはあっても、そこに銃弾や石油を補給できなければただの箱船だ。

今回も被災地の避難所までの物資の補給ルートがなかなか確立できずに苦労した模様だ。

実際に道路の壊滅状況がわからないが、道路、空路、通信を早く確保することが大事だと思う。

物資で言えば、初期に山形空港が生きていたなら、羽田空港を旅客機は閉鎖し、アジアからの物資支援のハブ空港とすべきだったと思う。

アジアから、燃料、カセットガスコンロ、カイロ、そして食料をバンバンチャーター便で輸送してもらうべきであった。

そして山形空港までの往復輸送を行い、現地までの物資補給のハブにすべきだったであろう。

もう一つの問題は通信手段だ。
今回はケータイのネットワークが完全に破綻したが、これは、最近の技術でうまくバックアップできるのではないかと思う。

例えば、モバイルWiMAXなどは、帯域によるが、見通しの良い地域ならば20〜50kmくらいをカバーできる。

高速で無くても、1Mbpsくらいでいいので確実に広範囲に届く無線技術を作っておくと良いと思う。大事なのはホストとノードをつなぐのではなく、それぞれの基地局がノードになるP2P型の基地局にして、それぞれに太陽光発電をつけておく。

仮にノードのカバー範囲が30kmくらいになるのなら、東北地方をカバーしても100以下の基地局になるので、設置コストもあまりかからない。

本当に災害時の通信手段を確保したいならそのような技術開発が必要だと思う。

あと、政府のポータルが必要だと思う。どんな情報でも政府のホームページの更新速度は十分に国民の期待に答えていないと思う。

東電のホームページがダウンしかけた様に、一般のサーバーでは本当に有事の情報が滞る可能性がある。

もし日本人全員がアクセスしてもさばき来れる通信を確保するならヤフーなどのサーバーを活用するほうが良いと思う。

主要インフラ企業とのホットラインをヤフーが持ち、ポータルはヤフーを利用するようにすべきだ。

この先の震災でも、被害を最小限にするために、情報ポータルはさらに重要度を増すと思う。